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太古-有史以前
ご存じのように日本は周囲を海に囲まれ、魚介類に恵まれていました。
古代人の遺跡である貝塚からは、海藻を食べていたというはっきりとした痕跡は発見されませんが、たくさんの貝類と共に海草類が食べられていたと想像できます。生命維持に必要な塩分を摂取する最も簡単な方法がこの海藻食であったと思われます。
神話の時代
歴史にあらわれる海苔の最初の記述は「常陸国風土記」です。
日本武尊(やまとたける)が霞ヶ浦を巡回して「海苔の多くを乾かしてある地」を「乗浜(のりはま)」と名付けた。と記録されています(4世紀初め)。
ここには三種の海藻が書かれていますが、その一つはおそらく塩を作るためのものであったと思われます。当時の製塩法は「藻(ホンダワラ等)の上に何度も海水を振り注いで乾燥させる。そしてその藻を焼く。できた灰を濃い海水に溶かして、さらに煮詰める。」でした。(海藻は塩の母であったわけです。)この「海藻焼」はその後もずっと続けられ、海岸の風物詩として永く人々に親しまれてきました。
仏教の伝来と海の幸
大陸との交流が盛んになり、仏教が渡来し、肉食を行わなくなった飛鳥・奈良の人々の食卓にのぼったのは栽培野菜と海の幸でした。このころ食べられた藻類は20種以上を数えますが、多くはニギメ(わかめ)、アラメ(ところてん、てんぐさ)、ムラサキノリ(海苔)等でした。大宝律令(702年)の記載によりますと納める種類毎に量が定められていて、少ないものほど高級であったといえます。
男子が年間納める量(大宝律令)
紫菜(むらさきのり)
・・・
49斤
滑海藻(あらめ)
・・・
360斤
凝海藻(こるもは)
・・・
120斤
海藻根(まなかし)
・・・
8斗
海藻(にぎめ)
・・・
130斤
未滑海藻(かじめ)
・・・
1石
海松(みる)
・・・
130斤
海苔で納める場合は49斤でよく、海藻の中では「海苔」が第一級品であったことがわかります。
2月6日は海苔の日
大宝二年(西暦702年)に執行された大宝律令の中で、海苔が産地諸国の物産に指定され租税として徴収されたという記録にもとづき、昭和42年に執行のはじまりである2月6日を「海苔の日」と定めました。
鎌倉〜戦国時代
茶の湯と海苔
鎌倉幕府が開かれると伊豆の名産品である海苔が一躍脚光を浴びます。「吾妻鏡」によれば頼朝は、前後4回にわたって都に海苔を献上しています。
室町時代になってからは僧坊料理の中で海苔は認められてきました。料理の後の喫茶に際して必ず食べられたものに「茶の子」があります。串かき、のり、くり、むすびこぶ等の「木の実」「海藻」「豆類」で、これは同じようなお茶うけとしての「点心」が中国風であるのに比べてまったくの日本風でありました。
戦国時代はひと休み
しかしその後の戦国時代は陣中食としての即席料理が工夫され、人々は兵糧の蓄積に熱心であったため、希少価値の高い「海苔」は不遇の時代であったと思われます。
※このころの海苔はまだ生海苔で、その後、江戸時代の後期になってやっと現在の「乾海苔」がでてくるのです。
江戸時代
浅草海苔
江戸中期・元禄時代の俳人芭蕉の句に「衰えや歯に食いあてし海苔の砂」というのがあり、元禄時代までの自然採取の様子がわかります。この時に海苔の製法は、採った海苔をそのまま広げて乾かしたもので「展延法」といわれます。
養殖されるようになってから、海苔を細かく刻んで紙のように「すいて」作る「すき製法」が行われるようになりました。この製法を最初に行ったのが「浅草」だといわれています。(1680年代から)再生紙の「浅草紙」は有名でした。「海苔すき」もこの紙漉き製法にヒントをうけたものと思われますが、「浅草海苔」の名前自体は、海苔の「すき製法」の始まる以前から使われていたようです。
現在の観音様(浅草寺)の地が海であった頃、海苔の養殖がはじめられ「浅草海苔」として売られていたという説もあります。京都の俳人松永貞徳の著作である「毛吹草」(1638年)には当時諸国の名物が1800種載せられその中に関東の海苔が3種あげられています。
【安房国 小湊海苔】 【武蔵国 品川海苔】 【下総国 葛西海苔「浅草海苔」】
そしてその後江戸「浅草」の商業の発達によりその名を不動のものとしました。
海苔の養殖
江戸時代後期になるまでは海苔は岩や貝殻、流木などになどに付着したものを取っていました。江戸時代、将軍様に毎日さしあげる魚を海の中の「いけす」で飼っていました。このいけすは「そだ」と呼ぶ木の枝や竹で造った棚に囲まれたもので、日々さしあげる魚を囲うところから「ヒビアミソダ」と呼ばれていました。
この「いけす」に海苔が付き「もしかして海の中に木を立てれば海苔が生えるのではないか」と考えられ、木の枝を海にさしてみたところ、やはり海苔がつきました。これが養殖の始まりでその枝を「ノリヒビ」と呼ぶようになりました。(1710年代頃)
海苔ヒビのうつりかわり
「ノリヒビ」は江戸時代から明治・大正まで木の枝を使っていました。ところが養殖場が大森、品川をはじめ千葉など全国へ広がるにつれ木の供給が間に合わなくなりました。竹は滑らかなので海苔の成長が悪く、また、重くなるとしなって海水に浸るため(日光に当たる時間が短くなり海苔の色、香りが落ちる)敬遠されていましたが、経済的優位性から、昭和の初めには「竹ヒビ」が90%を越えるようになりました。(昭和8年には東京で5百万本の「竹ヒビ」が立てられていました)
しかし、竹材の不足と作業上の難点からさらに研究が進められ、現在のような「網ヒビ」が使われるようになったのです。
現 代
現在の海苔の養殖方法は海苔胞子を付けた網を水平に張ります。一枚の「網ヒビ」(縦2メートル、横20メートル)から上級の乾海苔にして300枚位を摘み取ります。