|
茶の学名
1753年にリンネというスウェーデンの学者によって、「Theasinensis ( ティー シネンシス )」と命名され、所属が椿(Camellia)となる。茶はツバキ科カメリア属の常緑低木で、10月から12月にかけて白い花が咲き実がなります。 |
| |
茶の語源
茶は世界的に「ティー」または「チャ」のふたつの系統に近い発音で呼んでいます。これは中国の廈門(アモイ)方言の茶=テイ(Tay)と、広東(カントン)方言の茶=チャ(Cha)のふたつを元に世界各地へ伝わったからです。
世界各国での「茶」の呼ばれ方 |
イギリス、アメリカ |
・・・ |
Tea(ティー) |
ドイツ |
・・・ |
Tee(テー) |
フランス |
・・・ |
The(テ) |
イタリア、スペイン |
・・・ |
Te(テ) |
ロシア |
・・・ |
Chai(チャイ) |
ポルトガル、ペルシャ |
・・・ |
Cha(チャア) |
トルコ |
・・・ |
Chay(チャイ) |
|
| |
発祥の地
お茶の木のルーツは中国の雲南省といわれ、雲南省の奥地では今も樹齢1700年という「茶王」と呼ばれる大きなお茶の木も残っています。そこから世界各国へ「ティーロード」が延びていきました。 |
| |
悠久の時をうたう茶の心
日本にお茶が伝来したのは、中国からというのが一説となっています。それがいつごろかというとはっきりしていませんが、奈良時代の初期、天平元年(729年)、聖武天皇が衆僧に茶を賜ったという記録がありますから、すでにそのころには遺唐使などによって当時の朝廷に伝えられていたと考えられるようです。以来、お茶は千二百年以上にわたって日本で親しまれてきました。一部の高貴な人々の飲み物から、武士へ、商人へ、そして庶民の飲み物へ。
また、飲まれ方としても時代の流れの中でさまざまに変化してきました。あるときは薬用として、身分の象徴として、そして人々の暮らしを豊かにする生活習慣としての飲み物へ。そうした有為転変の歴史に想いを馳せ、時の流れがいまへと運んでくれたお茶を飲むとき、私たちは大げさではなく、脈々と伝承されてきた日本の心を感じることができます。
お茶・・・ ひょっとすると、それは私たちの国の栄枯盛衰を、あるいはそこで人々が紡いだ無数の物語を、それらすべてを見つめ伝えてくれる悠久の語り部なのかもしれません。 |
| |
東山の宴 華麗なる唐様の茶
お茶が一般に知られ始めたのは、鎌倉時代の初期のことと言われています。とはいっても、それは禅宗の僧などが薬用として紹介していたもので、お茶が文化的な色合いを濃くしていったのは、室町期の東山時代といっていいでしょう。
東山文化といえば、銀閣寺などに代表される書院造りが連想されますが、この頃のお茶もその影響を大きく受け、一般には「書院台子茶」と呼ばれています。特徴は、茶道具や装飾など、端正・華麗な唐物を愛好する多分に貴族趣味的なもの。そして、そのお茶の席に、文字通り貴族や上流武家が集い、絵画や茶器、茶道具などの芸術的価値を楽しむといった趣向だったようです。
お茶そのものを味わうよりも、唐物という海外ブランドを喜ぶあたり、何やらいまの時代の日本にも共通する点がありそうですが、どのようなものでしょうか。 |
| |
戦国の花 武将と堺商人
中国的な華麗さがすべてであった書院台子茶に、これを基本としつつも素朴・簡素といった和様化いわゆる「侘び(わび)」への方向を与えたのは、村田珠光という人物だとされています。その後珠光の弟子たちによって、そうした新しい価値感をもった茶の湯が各地に広まっていきましたが、その中でもとりわけブームになったのは、堺(さかい)の町衆たちの間でのことでした。
当時の堺は、戦国時代にあっては不思議な都市で、対外貿易によって巨大な富を集めながらも、どの大名にも侵されず、商人たちによる一種の自治行政が行われていました。この町で新しいお茶の文化が花開いたのも、そうした自由闊達な空気があってのことだったといえるでしょう。
そんな茶の湯のブームは、中央に織田信長が進出して堺がその直轄下におかれてからも、むしろますます盛んになりました。信長は南蛮好きで知られるように、とにかく新しいもの好み。世界の文物が集まる堺の町で磨かれた茶の湯が、彼の前衛的な芸術センスにぴったりとフィットしたのでしょう。多くの茶人を召し抱え、その発展に尽力しました。 |
| |
桃山の侘び 利休と茶の美学
村田珠光にはじまり、堺で磨かれた「侘び茶」を茶繕一味ともいわれるように、きわめて哲学的な美の思想にまで高めたのは、豊臣秀吉の茶頭となった千利休でした。利休の美への姿勢がどれほど厳しいものであったのか、それを彷彿とさせる逸話が秀吉との間にあります。
あるとき、利休の庭に朝顔が見事に咲きました。それを聞いた秀吉がさっそく来てみると、庭には朝顔がひとつもなく、秀吉は非常に不機嫌になってしまいました。さて彼が茶室に通されると、目にしみるような色あざやかな朝顔が、たった一輪だけ床に活けてあります。利休は、その一輪に美のすべてを凝縮させるため、庭に咲き乱れる無数の朝顔を残らず摘み取ってしまったというのです。もちろん、秀吉がその美しさに感心したのはいうまでもありませんが、同時に自分の派手好みを否定されたようで、腹立たしくもあったということです。
この逸話は、どうやら後世の作り話らしいのですが、利休と秀吉の美的思想の違いがよく現れていて大変興味深いものがあります。この思想の相違から利休が秀吉に切腹させられたというのは少し飛躍しすぎかもしれませんが、ときにはお茶を楽しみつつ歴史の謎を推理してみるのもまた一興というべきでしょう。 |
| |
売茶の翁 煎茶の普及
さて、秀吉の時代が終わり、徳川家康へとその政権が移行していくとともに、これまでの茶の湯とは別に「煎茶」という新たな喫茶法が世に現れはじめました。一説によると、この煎茶を日本へ伝えたのは明の禅宗といわれ、またこの作法を定めた元祖は江戸初期の儒学者、石川丈山という人物(とされています。その後、高遊外という人物)が中興売茶翁と称して売茶をしたといわれていますが、世に煎茶が広まったのは、一般にはこの売茶によるものとされています。
売茶とは、室町時代の初め、法師が往来の人々に茶を施して結縁(けちえん)したのが起こりだといわれますが、高遊外の場合は抹茶ではなく、煎茶を点てて売り歩きこれを普及させています。さらにその後、売茶翁二世の八橋方厳にいたって煎茶の作法が確立され、ついで雨月物語の作者としても知られる上田秋成らによって、その法が大成したようです。
それらの人々は、格式にこだわらない自由な環境を楽しみました。そうして煎茶趣味が一般に広まると、さらに簡素な喫茶法として、茶葉を急須に入れ、熱湯を注ぎ、その煎じ汁を飲むといった方法が日常的になっていきました。私たちがいま楽しんでいるお茶は、それが今日にいたっているものです。 |